ひめじ芸術文化創造会議
本稿は、昨今世間を賑わせた「あいちトリエンナーレ2019」内の展示の一つ「表現の不自由展 その後」をめぐる問題について、2019年9月以降に当会議の定例会議にて行われたディスカッションで取り上げられた争点をまとめたものです。記事作成は立花晃副代表を中心に行い、月ヶ瀬悠次郎代表の加筆を経て公開されました。
現代の「芸術」という言葉には、さまざまな意味が包含されています。近代以前には、単なる技術と特に区別して呼ぶ場合「よい技術、美しい技術」などと表現され、本来の「art」という言葉の一部を占めるに過ぎない第二義的なものでした。しかし今や、アート(=芸術)は、芸術作品のみならず、思想や生活の隅々に至るさまざまな領域にまで拡がりを見せています。
そうした中、先日開催され、たった三日で中止に至った「あいちトリエンナーレ2019」内の展示の一つである「表現の不自由展 その後」をめぐる問題は、表現の自由とは何かという問いを私たちに突きつけました。芸術文化についてさまざまな立場から議論を行っている私たち「ひめじ芸術文化創造会議」では、この問題を機に表現の自由と芸術のあり方に関して議論を始めました。なぜならば、こうした問いにきちんと向き合うことが芸術文化を萎縮させないために必要不可欠なことだと確信しているからです。
本稿では、この問題をきっかけとして、表現の自由と芸術の関係について以下の4つの論点に整理しました。ただし、私たちが船頭として芸術の定義や表現の自由の範囲について定義を設けようというつもりはありません。あくまで、論点を提示することにより、本団体の活動を含め、さまざまな立場から芸術文化について考えるきっかけを提示するものです。
論点1:主に芸術と政治・宗教及び公共政策としての文化芸術の位置付けに関する問題
Q.芸術作品(思想信条を創造的に表現したもの)の展示ということであればなぜ中止したのか。仮に政治的なメッセージを含む展示だと自覚しているのであれば、中立性、両論併記が必要なのではないか。
Q.そのような展示に公共政策として国費や県の予算が投じられることに、国民、県民の同意が得られるか。
Q.反芸術(エロ、グロ、犯罪をも肯定し、そこに芸術性を見出だす芸術)やナンセンス・アート、ブラックユーモアの類なのか、政治的なメッセージの展示なのか位置付けが曖昧ではないか。
個人の創作や展示であれば問題にすべきではないかも知れませんが、公金が投入されている点には注意する必要があります。歴史的に見れば、政治や宗教と芸術は、多くの場合切り離されては来ませんでした。しかし、日本を含む近代資本主義国家においては、公共文化政策には公平性・中立性・非政治性・非宗教性が求められます。
また、民族的に機微のある問題を扱うことへの注意も必要でしょう。加えて、多くの税金が投入されている地域イベントであることも考えれば、納税者である愛知県民や国民の理解が得られるのかも大いに議論を行うべきです。
論点2:芸術そのもの位置付けと政治性に関する問題
Q.今回の展示について、何がそれをアートたらしめているのか。(チン・ポム↑やチャップマン兄弟、森村泰昌などの政治的な主張も含む表現はアートであると言えるか)
Q.ひとつひとつの展示を、立体造形物や映像作品としてみた場合、内容や質の点からも魅力や創造性が存在するのか(雑な仕上げ、稚拙なデッサン、政治的メッセージの偏り、思想の表層性…etc)
わが国においては、憲法でも保障されているとおり「他人の権利を大きく害しない限り」どのような表現も認められます。しかし、芸術作品は、表現された瞬間からある種の一人歩きをします。そのため、表現行為を行ったことによるによる“結果”、即ち評価や批判などを甘受することもまた、創作者の責任であると自覚しなくてはなりません。この点において、アートディレクターである津田大介氏の覚悟はどれほどのものだったのでしょうか。
一方、アートや表現の自由は、法治国家であるわが国では(あくまで法律上は)他の法令との兼ね合いで制限されます。違法行為や犯罪に該当するその結果、身体を拘束されること、あるいは表現の行使を中断されることは十分に予見の範囲内であると言えます。
たしかに、今回の展示が犯罪行為に該当するかについてはかなり微妙であり、(国家や国旗、あるいは特定の団体や個人への侮辱、特定の政治的メッセージなど)高度に専門的な判断を要します。
しかし、表現者達がそれらをも超越する普遍的な反芸術的価値観で、(極端な例として)殺人がアートであるとして行使するようなこと、そのものは止めようがありません。もちろん、事前にわかっていれば法律で取り締まることはできますが、表現者が覚悟の上で行うのであれば、それを予見し、抑止する力を私たちは持ち得ないのが現状です。基本的には事後に対処療法的に法律を当てはめていくしかないのです。
論点3:関係者、企業等の理解が得られるか
Q.愛知県が主体となって行う「あいちトリエンナーレ」自体の趣旨に適っているか。
Q.協賛企業の理解、協賛企業のユーザーの理解を得られるか。企業イメージの毀損に繋がっていないか。
Q.(特攻隊の展示などに関し)遺族や関係者の理解を得られるか。
今回の展示は、地域イベントとしての「あいちトリエンナーレ」の趣旨に沿って市民や協賛企業、それら企業のユーザーなどの理解が得られる形で適切に行われたのでしょうか。
本トリエンナーレの開催目的
新たな芸術の創造・発信により、世界の文化芸術の発展に貢献します。
現代芸術等の普及・教育により、文化芸術の日常生活への浸透を図ります。
文化芸術活動の活発化により、地域の魅力の向上を図ります。
主催:あいちトリエンナーレ実行委員会
(引用元:あいちトリエンナーレHP https://aichitriennale.jp/ )
今回の展示は、上記の趣旨に適っていたでしょうか。これに起因する不買運動などが起こった場合、誰がどのように補償するのでしょうか。さらに、それら企業や団体にそれぞれ事前説明はあったのでしょうか。(それにより協賛や資金提供の状況も変わったはずです。)
しかし、このことについては、次の表現の自由に関する論点と矛盾する部分もあります。なぜなら、「企業や行政はあくまで自由な芸術表現の“場”を提供したに過ぎず、そこで行われるいかなる表現にも干渉すべきではない」という考え方もまた存在するからです。
論点4:憲法上の表現の自由は本当に脅かされたのか
Q.権力による“検閲”によって中止に追いやられたのか。
今回の議論では、権力による“検閲”によって中止に追いやられたのだ、という言説があります。しかし、本当にそうでしょうか。
そもそも検閲とは、①事前に、②公権力が、③表現に対する圧力を掛けることまたは表現自体を公表させないことを目的に④権限を行使することをいいます。
これに照らせば、“ガソリンを〜等の脅迫があり、案税制が担保できないため中止に追い込まれた”、という大村知事の説明は、これに一切当たらない全く異なる次元の説明です。
むしろ、この場合の権力者である大村知事が行使した権力・権能によって一方的に中止されたのだ、と言えます。
Q.今回の中止に関する一連の動きは、本当に日本国憲法第19条及び第21条の理念に抵触しているか。
今回の中止に関する一連の動きについて、日本国憲法第19条及び第21条の理念に違反しているという批判があります。しかし、下記の条文に照らして、憲法違反に該当するような行為や圧力はあったのでしょうか。また、一方で表現の自由に関する制限も規定されています。これについてはどうでしょうか。
『日本国憲法』
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
『市民的及び政治的権利に関する国際規約』
◆ 表現の自由及び表現の自由に対する許される制限(第19条)
① すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。
② すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
③ ②の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課すことができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。
a) 他の者の権利又は信用の尊重
b) 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護
◆ 戦争宣伝・憎悪唱道の禁止(第20条)
① 戦争のためのいかなる宣伝も、法律で禁止する。
② 差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。
さらに日本では、積極的な情報請求権としての「知る権利」も憲法第21条の保障に含まれると解されています。ただし一方で、政府への情報公開請求権に基づく「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」は、「知る権利」を根拠とせず、公開の対象範囲が不十分との指摘もあり、憲法改正で憲法に明記しようという主張もあります。
そのため、憲法で表現の保障(権力によって制限されない権利)は全ての国民に保障されてはいますが、表現の自由は他人の利益や権利との関係から一定の制約も存在します。
憲法第13条の「公共の福祉」による制限を受ける、とするのが通説で、「プライバシーの権利」「肖像権」「環境権」などの権利を侵害してまで、表現の自由は保障されないわけです。ほかにも、差別表現やヘイトスピーチ、名誉棄損、性表現をめぐる芸術性の問題なども、表現の自由の適応範囲なのかに関する議論が続いています。
世界でも、表現の自由は民主主義政治を支える基盤として、例えばフランス人権宣言の第11条に「人の最も貴重な権利の一つ」と明記されています。これについては、各国の憲法典や人権宣言に保障規定としても盛り込まれ、1948年の世界人権宣言第19条、1976年の市民的及び政治的権利に関する国際規約第19条第2項でも定められています。
こうした、表現の自由と芸術文化に関する一定の制約について、今後下記の様な観点からも一層議論が活発になることでしょう。その際、自分はどのような立場をとるのか、ものづくりや表現活動に関わる者全てが自覚的である必要があります。
その他考え得る論点
Q.文化芸術基本法、文化芸術振興基本法との兼ね合い。
Q.パブリック(公共性)とアート(芸術・表現)の矛盾。
Q.今後のリレーションシップアートや、地域アートとしてのトリエンナーレのあり方。
Q.その主張はあくまでアートでなければ表現できなかったかどうか(アート>著作物)。
Q.表現の自由の内在性(内的・精神的自由)に関する議論。
Q.作家と作品の同一性の問題(芸術は発表した瞬間に作者の手から離れる)。
Q.国際人権規約(自由権規約)における表現の自由との兼ね合い。
「ひめじ芸術文化創造会議」では、今回提示した論点を受け「(私たちの考える)芸術とは何か」、「(同様の事例が再び生じた際に)私たちはどのように対峙するのか」について、よく考え、折に触れて議論していきたいと考えています。
月ヶ瀬 悠次郎 (ひめじ芸術文化創造会議 - 代表)