役員の活動/第47回全日本仏教徒会議大阪大会の聴講

公開日時/2025年09月06日

役員の活動/第47回全日本仏教徒会議大阪大会の聴講 - メインビジュアル

文:月ヶ瀬悠次郎 月ヶ瀬悠次郎

2025年9月5日(金)、大阪市内にて「第47回全日本仏教徒会議大阪大会」が開幕した。本大会は大阪府佛教会創立60周年を記念し、公益財団法人全日本仏教会との共催で実施されたものである。この日は「無量の『いのち』~すべてのいのちを慈しむ~」をテーマに、国内外から仏教者が集い、法要・式典・フォーラムなどが行われた。

2025年9月5日(金)、大阪市内にて「第47回全日本仏教徒会議大阪大会」が開幕した。本大会は大阪府佛教会創立60周年を記念し、公益財団法人全日本仏教会との共催で実施されたものである。この日は「無量の『いのち』~すべてのいのちを慈しむ~」をテーマに、国内外から仏教者が集い、法要・式典・フォーラムなどが行われた。


冒頭では「第47回全日本仏教徒会議大阪大会記念法要並びに世界平和祈願法要(戦後80年、全世界物故者追悼慰霊)」が営まれ、大会総裁である全日本仏教会第36期会長・浄土門主の伊藤唯眞ゆいしん猊下が導師を務められた。戦後80年という節目にあたる祈りは、過去の犠牲者を追悼するとともに、未来への平和を希求する大会の基調を示す荘厳な場となった。

平和の祈りを捧げる僧侶たち(導師は浄土門主・伊藤唯眞猊下)
平和の祈りを捧げる僧侶たち(導師は浄土門主・伊藤唯眞猊下)

続く式典では、各方面からの挨拶や祝辞が寄せられた。日本仏教徒会議の上位組織である世界仏教徒連盟(WFB)のパロップ・タイアリー会長も登壇し、四天王寺を有する日本仏教揺籃の地・大阪の特異性を紹介し、また増上寺が所蔵する三種の仏教聖典叢書がユネスコ『世界の記憶』に国際登録されたことへの祝いの言葉を述べた。これを受けて、増上寺の小林正道執事長が登壇し「これは戦争や革命がなかったからこそ残ったものであり、増上寺だけのものではなく、日本仏教全体の財産である」と語り感謝の言葉が述べられ、また記念品の贈呈がなされた。


午後のフォーラム「未来社会における宗教の役割」は釈徹宗師の進行で始まった。冒頭、釈師はテクノロジーの進化に人間の精神性が追いついていない現状や、DEI(多様性 Diversity、公平性 Equity、包括性 Inclusion)の後退といった課題を示しつつ、仏教のいのち観に触れた。仏教における本来的ないのち観では、この世を「苦」ととらえて解脱することを目指してきたが、大乗仏教には生命の喜びを積極的に受け入れてきた面もあるとして、そこから「各宗教において大切にしているものは何か」と問いを投げかけた。

左からモデレーター釈徹宗師、パネリスト戸松義晴師、小原克博師、アナス・ムハンマド・メレー師、サイード・佐藤裕一師、三宅善信師
左からモデレーター釈徹宗師、パネリスト戸松義晴師、小原克博師、アナス・ムハンマド・メレー師、サイード・佐藤裕一師、三宅善信師

最初に三宅善信師が、人は自身の事を他者を通してしか知ることができないという視点を述べた。アナス・ムハンマド・メレー師は、技術の発展が人を生かしていること、そしてその発展には部族や民族を超えた対話が欠かせないと語った。サイード・佐藤裕一師はメッカという多民族の交わる場を例に上げて、異なる民族・文化の人々が共有できる「人生の目的」を意識することが重要だと述べた。小原克博師は未来を考えるためには歴史を大切にするべきだと強調し、科学の発展に振り回されて近視眼的になってはいけないと語った。戸松義晴師は自身は僧侶であるのにふさわしいか、僧侶であるとは何であるかを問い続けていると述べ、合理性から導かれる刹那的な正義ではなく、普遍的な正義を求めたいとし、たとえ攻撃されても暴力によって反撃せずに受け止める覚悟が平和を希求する宗教者には必要だと語った。

釈師はここで「諸宗教対話というと共通点ばかり語られるが、相容れない部分にも触れてよい」と促し、議論は宗教と暴力/非暴力の問題に進んだ。

三宅師は、国連事務総長の発言を引きつつ、80年前の正義の構造(戦後の国連ベースの秩序)が制度疲労を起こしており、そこに敬意を払わない為政者によって容易に秩序を無視することができてしまう現状を指摘した上で、宗教者はそこに割って入らなければならないと述べた。これに対し戸松師は、宗教者の声は政治に届きにくく、宗教者が社会の中心から周辺に追いやられている現状を語った。小原師はアメリカのキリスト教には「正しい戦争」という考えが根強く、日本の戦後キリスト教とは立場が違うと述べ、また宗教者の声が届かないと諦めるのではなく社会から軽視されないように発言に説得力を持たせねばならないと語り、これには戸松師も「理想として、目標として言葉を届けようとすること自体を諦めてはいけないのはそのとおりだ」と受け入れた。アナス師はSNSに暴力やヘイトが広がる危険を指摘し、サウジの大学ではAIが必修科目となっていることを紹介したうえで、AIを使って正しい情報を発信することが暴力につながる発信を防ぐ力になると述べた。サイード師は、イスラムの教えは本来平和を目指すことを前提としているが現実はそうなっていないと指摘し、一方で日本の比叡山サミットのような取り組みは多宗教共存のモデルになると評価した。ここで三宅師が「慈悲は受け身ではなく、行動すること(action)だ」という開会式でのタイアリー会長のコメントを取り上げ、また南アフリカ共和国で先月開催されたG20諸宗教フォーラム2026での「Ubuntu(あなたあってこその自分)を行動において示せ」との提言を紹介した。

議論はさらに、宗教が暴力を後押ししてしまう危険性にも及んだ。

小原師はアメリカの宗教右派の台頭や日本のオウム事件を例に挙げて先鋭的になりすぎた宗教の暴力性を認めつつ、国内に閉じていた右派が国際的に連携するようになっている現状を新たな危機と指摘した。サイード師も、日本国内のムスリムが多様な国籍から成り立ち、内部にも多くのグループがあることを紹介し、内部の対話を怠ると先鋭化が生じる可能性があると警鐘を鳴らした。

フォーラムの終盤ではテーマに立ち返り、「無量のいのちを慈しむ」とは何かについて意見が交わされた。戸松師はまず自分自身のいのちを受け止め、慈しむことから他者への慈しみが生まれると語った。小原師はキリスト教の隣人愛を出発点に、人間中心主義を超えて自然や他の生命に目を向ける必要性を示した。アナス師は多民族の交流を通じて共通点を探す姿勢を改めて語り、サイード師は完全な創造主と対象的な不完全な被創造物である私たちの補い合いによって世界が成り立っているというイスラムの理解を述べた。釈師は仏教が縁起によってすべてを対等とみなす点に触れ、宗教ごとの違いを浮き彫りにした。三宅師は「私のいのち/My Life」という表現に含まれる所有と所属の二つの意味に着目し、所属と考えるなら命は他者から切り離せないと語った。

釈師は最後に、日本の若者の死因の多くが自死であることを指摘した。これに対して、小原師は自己肯定感の低さに寄り添う必要を強調し、戸松師は同調圧力に抗い、一人ひとりの尺度を尊重する支援の必要を述べた。三宅師はさらに、人間より利口な生成AIが登場しつつあることで人間の「万物の霊長」としての特異性が揺らぐなか、宗教者はその未来の方向をどう示すかが重要だと語った。

終盤ではサイード師が「遠い戦争を止めるより、自分の心の争いを鎮めることが出発点だ」と語り、小原師は「宗教は日常を相対化し、非日常を示す力を持つ」と述べた。三宅師は対立を恐れずに議論し、嫌な相手の中にも優れた点を見出すことが大切だと強調した。戸松師は理想を捨てず、平和や核廃絶を願い続けることの意義を語った。釈師は「宗教だからこそ提示できる視点がある。それを社会に伝えていこう」と結び、フォーラムは閉じられた。


開会に先立って会場に到着した月ヶ瀬悠次郎代表
開会に先立って会場に到着した月ヶ瀬悠次郎代表

本大会には月ヶ瀬代表が聴講者として出席し、上田幹事がプレスに準じた許可を得て写真記録を担当した。芸文会議としても、宗教者たちの議論から浮かび上がった「いのち」「平和」「共生」の視点を地域文化の現場にどう生かすかを考えていく契機となった。



月ヶ瀬ノート

「智慧の石であるおまえよ。おまえは自身を高く投げ上げた。しかし投げ上げられた石はすべて落ちざるをえない。おお、ツァラトゥストラよ、智慧の石、石弓の石、星の破壊者よ。おまえ自身をおまえはこれほど高く投げ上げた。しかし投げ上げられた石はすべて落ちざるをえないのだ」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

 

私は大阪大会のフォーラムを聴きながら、この言葉を思い起こしました。宗教者たちは「無量のいのち」を語りつつ、とりわけ「個人の心の中の争いを鎮めることが出発点である」という指摘を繰り返し強調していました。人間の心の奥底にある攻撃性や闇を放置したまま、社会が健全に保たれるはずはないという洞察は、まさに現代社会を射抜くものだと感じました。

私たちの社会には、あまりに暴力的な言葉があふれています。インターネット上では、相手の人格や生命そのものを否定する罵声が日常的に飛び交い、いわゆるキャンセル・カルチャーと評されるようなふるまいとして「気に入らない者は悪」と決めつけ、徹底的に叩く風潮が広がっています。隣人と非隣人の境界線を勝手に引き、賛同しない者はすべて敵とみなして攻撃をやめません。そうした同調圧力と脅迫的な空気は、他者を傷つけるだけでなく、結局は自分たち自身をも苦しめているのです。

この現実は、圧政的な支配者による暴力ではなく、市民同士の相互不信と攻撃性によってもたらされています。互いに譲らず、愛し合わず、奪い合い、押し付け合うことによって、社会は自らの手で息苦しさを生み出しているのです。このことは仏教説話に登場する「三尺三寸箸」の譬えを想起させます。ここにおいて必要なのは、単なる制度改革や規制強化ではなく、まず一人ひとりの心の内にある暴力性を抑制し、健全な関係を回復する営みであると強く感じています。

宗教者に限らず、私たちは互いに支え合い、誤解を恐れず、そして誤解を乗り越えるような対話を重ねるべきです。匿名の影に隠れて石を投げ続けるのではなく、相手をよく見つめ、その瞳の中に自分自身を見出してはっとする瞬間を持つことこそが大切なのではないでしょうか。そこからしか、本当の意味での「共生」や「平和」は生まれないのだと思います。

ニーチェが語った「投石機の石」は、未来に向けて投げ出される思想の比喩でした。石は空に放たれ、やがて必ず落ちて返ってきます。私たちの言葉もまたそうです。人を傷つけるための暴力の石ではなく、未来に届き、誰かの心に芽を育てるための石として、責任をもって投げかけなければならないのです。

今回のフォーラムで語られた「無量のいのちを慈しむ」という主題は、抽象的な理想ではなく、現代社会における実践的な課題として迫ってきます。個人の心を癒し、社会を健全にするために、私たちは互いの瞳を見つめ合いながら、未来に向けて言葉を投げかけ続けていく必要があるのです。その言葉がどのように受け止められ、どのように返ってくるかを信じながら。

 

最後に、本大会にお招きいただき、聴講の機会をくださった三宅善信先生に感謝申し上げます。


出席者(敬称略)
月ヶ瀬悠次郎
上田成昭
記事協力
株式会社レルネット
当会管理外の著作権
大阪府佛教会
公益財団法人全日本仏教会

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