コラム/ベクトルを失った言葉たち
公開日時/2025年06月05日

文:月ヶ瀬悠次郎 
「ベクトルを失った言葉たち」と題して、最近の若者言葉の変遷の裏にある感情表現を避ける心理をふんわりと考察してみました。
「ベクトルを失った言葉たち」と題して、最近の若者言葉の変遷の裏にある感情表現を避ける心理をふんわりと考察してみました。
1990年代、日本の若年層の間で「チョベリバ(超ベリーバッド)」「チョベリグ(超ベリーグッド)」といった造語が流行した。こうした語彙は、良し悪しの価値判断を直接的かつ簡潔に伝えるためのものであり、ある意味で“評価の言語“として機能していた。そこには感情の方向性──すなわち、物事に対する肯定・否定の立場──が明確にあった。
しかし、2000年代以降、言葉はその輪郭を徐々に曖昧にしていく。「やばい」「しぬwww」といった表現が拡がり、感情の“強度“は示すものの、その感情が肯定的なのか否定的なのかは文脈に委ねられるようになる。言葉は次第に、評価よりも共振、内容よりも反応を重視する方向へとシフトしていった。
そして2010年代後半、「エモい」という語が登場する。
この語は英語の“emotional”を語源とするものだが、実際の用法においては、情緒の種類も強度も方向性も語らない。ただ「感情らしきものが発生した」という、曖昧な情動の気配を伝えるにとどまる。たとえば誰かの手料理に対して「美味しい」とは言わず、「味がするね」と述べるようなものである。それは判断でも評価でもなく、ただ感覚の発生を報告するだけの表現である。
このような表現は、否定されるリスクを極小化するための戦略として理解することができる。「おいしいね」「たのしいね」といった言葉は共感を前提とするため、それを拒否されたとき、話者自身が否定されたように感じやすい。それに対し、「エモい」は共感の強制を避ける。誰も反論しないし、する必要もない。言語は、もはや他者との理解を深める媒介ではなく、衝突を回避するための無難な信号へと変容している。
この傾向がさらに先鋭化すれば、やがて「ぬー」のような、意味のない音声的発声だけが流行するだろう。評価も感情も伝えず、ただ「私はここに存在しています」と、ごくうっすらと存在を示唆するだけの音。これはもはや言語であるかすら怪しいが、現代的な非対立性の極地として想定しうる未来像である。
こうした現象は、言語的感受性の鈍化と同時に、主観の回避と不可分である。現在の若者たちは「うれしい」「かなしい」といった形容詞を避け、「うれしみ」「かなしみ」といった名詞化表現を用いる傾向がある。「私はうれしい」ではなく、「うれしみがある」と言うことで、感情を自分の内側の責任ではなく、どこか外在する対象のように扱う。「〜〜案件」「〜〜みたいなやつ」なども同様かもしれない。そこには、“感情を抱いた主体としての自己“から距離を取ろうとする動きが見て取れる。
この現象は、若者の語彙力の問題ではなく、否定されることへの過剰な防衛反応として読むべきである。自己の感情を明確に表現することは、他者からの同意や共感を期待する行為であり、その期待が裏切られたとき、自己の脆弱性が露呈する。だからこそ、言語表現はリスクの低い構文、あいまいな語彙、匿名的な主語へと収束していく。
こうした傾向を踏まえ、改めて思い出されるのは、往年のスタンダードナンバー「My Favorite Things」である。この楽曲は、自分が好むものを列挙することそれ自体に意味があった時代の文化的証左だ。だが、現代において「私のお気に入り」を堂々と語ることは、もはや無防備すぎるのかもしれない。好きなものを明言することは、恥ずかしさと、他者からの否定に晒されるリスクを同時に伴う。
私たちはいま、言葉による表現から、ただの「気配」や「存在の波」へと移行しつつある。しかし、それで本当に人と人は通じ合えるのか。
「エモい」で済ませることで何かを失っていないか。
「ぬー」で通じる社会が、本当に成熟した社会なのか。
言葉を通して、自分の感情を他者に伝えようとする営みは、時にぎこちなく、否定され、ズレることもある。しかし、それでも私たちは語ること、伝えようとすることを諦めてはいけない。共感や理解は、そうした不安定な言語的往復の中にこそ宿るものだからだ。

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