コラム/日本の植物分類学の父、牧野富太郎と兵庫県

公開日時 : 2023年03月29日

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文:森千江子 森千江子

今春より放送予定のNHK連続テレビ小説(第108作)「らんまん」に登場する主人公・槙野万太郎のモデルとなった日本の植物分類学者・牧野富太郎。兵庫県花ノジギクの命名をはじめ、なにかと兵庫に縁のある牧野氏について、森千江子幹事よりコラム形式の調査レポートが届いたので紹介する。

今春より放送予定のNHK連続テレビ小説※1(第108作)「らんまん」に登場する主人公・槙野万太郎のモデルとなった日本の植物分類学者・牧野富太郎。兵庫県花ノジギクの命名をはじめ、なにかと兵庫に縁のある牧野氏について、森千江子幹事よりコラム形式の調査レポートが届いたので紹介する。

※1 本記事の執筆にあたってNHK担当課に問い合わせたところ、略称の『朝ドラ』ではなく『連続テレビ小説』という正確な表記を用いることが望ましいと回答がありました。

コラム/日本の植物分類学の父、牧野富太郎と兵庫県

鮮やかな祭り屋台が練り歩き、威勢のいいかけ声が飛び交う姫路の秋、高さ60cmほど直径約3~5cmの白く可憐な花たちを浜手の公園周辺などでよく見かけるようになる。兵庫県花『ノジギク(野路菊)』である。ノジギクは1924(大正13)年に発見された日本の固有種で本州(兵庫県以西)の瀬戸内海、四国、九州に太平洋側に自生している。1954(昭和29)年県花に選定された。現在では県のレッドデータで準絶滅危惧種に指定されるほどに、数が減少している。

このノジギクを発見、命名した人物をご存知だろうか? 『日本の植物分類学の父』といわれる『牧野富太郎(まきの・とみたろう)』だ。

植物分類学とは植物一つ一つに世界共通のルールで学名を与え、研究することで、学名は「姓」「名」のようにラテン語で属名・種名・著者名の順につけられる。それとは別に地域によって呼び名(日本であれば和名)をつける。古くは薬のもとになる自然物全般が研究対象の学問だった。

富太郎が生涯をかけて採集した標本は約40万枚、描き残した植物図は約1700点、命名した植物はおよそ1500種にものぼる。

兵庫県内には牧野富太郎とゆかりのある植物が多くある。ノジギクはその代表で、富太郎が訪れた際に『日本一の大群落』と評したという大塩のノジギクや、その株を譲り受けた須磨区の横尾山などが名所である。また、善照寺(姫路市安富町皆河)の『ショウフクジザクラ』、かつて富太郎の植物研究所があった会下山小公園(神戸市兵庫区)の『スエコザサ』、たつの市新宮町篠首に自生している『コヤスノキ』なども富太郎が命名した。

今回のコラムでは牧野富太郎の生い立ちを中心とした前編と牧野富太郎とゆかりのある県内の人物をまとめた後編の2回に分け、その人物像や功績をご紹介したい。


1862(文久2)年、高知県高岡郡佐川町の裕福な造り酒屋『岸屋』の一人息子として生まれた成太郎(のちの富太郎)は幼くして両親と祖父を立て続けに亡くし、6歳から祖母に育てられた。病弱な身体だったが、学問に熱心で寺子屋や私塾でさまざまな分野を学んでいた。当時は武家でない者が学ぶのは珍しかったそうだが、後継ぎとして立派に育てたい祖母の支援があった。

富太郎の飽くなき探究心の片鱗を垣間見るエピソードがある。当時日本に入ってきたばかりで、大変珍しかった「時計」に興味を持ち、祖母に頼んで買ってもらったが、バラバラに分解してしまったという。中身が気になって仕方なかったのだ。そして自分で組み立てなおしたというから驚きである。

学制(明治政府が定めた学校制度)が決まると12歳で小学校に通い始めた。しかし、すでに知識が豊富だった富太郎にとっては何か物足りなかったのかもしれない。次第に通わなくなり、14歳で自主退学をする。自叙伝によれば、小学校在学中、唯一の楽しみは授業で使われた『植物図』という掛図を見ることだったそうだ。

その後の生活は、昼は野山を歩き回り植物採集と観察、夜は読書に夢中になる日々、足腰もみるみる鍛えられた。町内で植物の本を持っている者がいると知れば借りに行き、熱心に書き写していたという。

そんな富太郎を周りが放っておかなかった。非常に優秀な人物と見込まれ、翌年には学校から臨時教師として来てほしいと要請される。富太郎は快諾した。15歳が教壇に立つ、今では考えられない事だ。

富太郎は子供たちに教えていくうちに、自らの学問への意欲がさらに湧くようになる。2年間教師を務め退職したのち、兵庫県立病院附属医学校(神戸)から高知市の師範学校に異動してきた西洋の近代植物学に詳しい先生に度々会いに行った。その人物は『永沼小一郎(ながぬま・こいちろう)』といい、のちに富太郎は「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と語ってる。互いに得た情報を交換し、早朝から夜中まで話し込んだこともあった。富太郎の住む佐川町からは約30kmも離れていたがその道中は草花を採取しながら通っていたそうだ。この頃すでに富太郎は植物の観察図や観察記録を作っていた。植物採集の際も常に身なりを整えていたという。植物と真摯に向き合う想いが伝わってくる。

富太郎は植物の知識だけではなく、絵の才能も評価されている。幼い頃から絵を描いていたので腕前も相当であった。しかし、自身の道具では植物を細部まで知ることができず満足していなかった。

1881(明治14)年、富太郎は上京を決意する。この時19歳。上野で開催される『第二回内国勧業博覧会』でドイツ製の顕微鏡や書籍を手に入れるためだ。約2か月余りの滞在で下宿先の部屋を埋め尽くすほどになっていた荷物は次々と佐川へ送った。そしてお供の2人に「京都まで歩いて帰る」と言い仰天させる。帰り道は植物採集の旅となったのだ。

牧野記念庭園・記念館の牧野富太郎博士愛用の品々
牧野記念庭園・記念館の牧野富太郎博士愛用の品々

佐川に戻った富太郎は学問を続けたい想いを祖母に伝える。東京で出会った研究者たちとの交流はより一層、植物学の道へ進みたい気持ちを聢とさせていた。祖母はその熱意を受け止め了承する。1884(明治17)年22歳、再び上京する。

富太郎は当時唯一の大学であった東京大学理学部植物学教室への出入りを許可される。富太郎がほぼ独学で得た知識は研究者たちに認められるほどだったのだ。1887(明治20)年には教室の友人と共同で『植物学雑誌』を創刊する。この雑誌はその後、富太郎の論文の発表の場となった。

翌年には初恋の人『壽衛子(すえこ)』と結婚。子供も次々生まれた。日々植物研究に没頭していたため、その生活は決して裕福ではなかった。実家からの仕送りで繋いでいたが、すでに財産の大半を切り崩しており、岸屋の経営は傾いていた。富太郎は経費削減と技術を学ぶために自ら石板印刷屋に通い印刷技術も会得した。『日本植物志図編』を刊行したのも同年だ。掲載する植物図は緻密で非常に正確であった。幼少から培った観察眼に磨きがかかっていた。

1889(明治22)年27歳、富太郎は新種『ヤマトグサ』の学名を発表する。ヤマトグサは日本の固有種で本州(関東以西)から九州にかけて生育している。当時の日本では、植物研究が進んでいたヨーロッパの国々に標本を送り、特定してもらったり名前を付けてもらっていたが、日本人が初めて日本国内の植物に学名を付けたことは快挙であった。富太郎はその後も野外採集調査で新種を続々と発見する。

順風満帆に思えた富太郎だが、祖母の死、東京大学の出禁命令、多額の借金と、立て続けに困難が押し寄せた。妻の壽衛子はそんな夫を陰から支え続けた。1893(明治26)年31歳、富太郎は東京帝国大学理科大学助手となり、植物志や図説をいくつも出版する。明治30年代の終わり頃からは全国の講演会に講師として招かれていた。現地では植物採集の指導も行った。これほどまでに精力的に活動していた富太郎だが、謝礼は植物採集のための滞在延長費に消え、膨大な資料集めにも惜しみなく大金を投じ、借金はなくなるどころか増え続けていた。滞納が理由で家を追い出され何十回も引っ越している。1912(明治45)年50歳、東京帝国大学理科大学講師となるが、生活は苦しいままだった。

そして、ついに限界に達した1916(大正5)年、富太郎は自分の命ともいえる標本の一部を海外へ売却することに決め、東京朝日新聞の記者が富太郎の窮状を「不遇の植物学者、苦心の標本も売る羽目に」と大々的に報じた。この頃、富太郎は国民的に有名な研究者にまでなっていた。記者はこの記事は大変反響を呼び、大阪朝日新聞にも転載された。そして2人の篤志家が名乗りを上げ、富太郎はそのうちの1人、神戸の資産家である『池長孟(いけなが・はじめ)』から支援を受けることになり、のちに池長から建物を提供され、神戸市内に植物研究所も開所する。このエピソードの詳細については後半で紹介したい。富太郎は池長孟のことを「終生忘れることのできない恩人」と語っている。

1923(大正12)年9月1日、巨大地震が関東を襲った。この時、富太郎は渋谷に住んでいた。自叙伝には「植物研究雑誌」第三巻第一号をすべて火災で失ったと書かれている。富太郎は標本や書物を守るために安全な郊外へ転居することを決める。

1926(大正15)年64歳、東京府北豊島郡大泉村(現・練馬区東大泉)に662.24坪という広大な敷地に居を構える。ついに自分の家を持つことができたのだ。しかし、妻の壽衛子が長年の苦労で病に倒れ、1928(昭和3)年54歳という若さで永眠する。壽衛子にはこの土地で標本館と植物園を作りたいという夢があった。

富太郎は壽衛子が亡くなる前年に仙台で新種の笹を発見しており、妻への愛と感謝の気持ちを込めて「スエコザサ」と命名し、自宅の庭にも植栽した。

「家守りし妻の恵みや我が学び」

「世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」

富太郎が妻に捧げた歌である。

牧野富太郎の銅像とその周りのスエコザサ(牧野記念庭園)
牧野富太郎の銅像とその周りのスエコザサ(牧野記念庭園)

富太郎はその後も植物採集と研究、学生たちの指導に励み続けた。それが妻への恩返しであり、心の支えだったのではないだろうか。1936(昭和9)年72歳で『牧野植物学全集』の刊行を始め、約2年で全6巻を完成させた。翌年には、朝日文化賞を受賞している。1940(昭和15)年に『牧野日本植物図鑑』を刊行し、その後次女の鶴代とともに旧満州(現在の中国東北部)へ招かれ桜の調査に赴いている。

戦況が激化し、自宅前の門にも爆弾が落ちたため一時疎開していたが、自宅の標本や書籍は無事であった。戦後はさらに研究本や随筆集の出版に尽力した。1957(昭和32)年、天真爛漫で情熱的な一生を駆け抜け富太郎は94歳で旅立った。


晩年約30年を過ごした東京都練馬区の自宅跡には『牧野記念庭園』が建てられ、富太郎が愛し研究していた植物達が今も四季折々の姿を見せ、来園者を楽しませている。冒頭に取り上げたノジギクも植栽されている。

牧野記念庭園の入口(練馬区提供)
牧野記念庭園の入口(練馬区提供)

富太郎のひ孫であり、牧野記念庭園学芸員、牧野一浡(まきの・かずおき)氏と『もっと知りたい 牧野富太郎 生涯と作品』の著者で、同じく学芸員である田中純子(たなか・じゅんこ)氏にお話を伺うことができた。

「曽祖父は山ほどやることがあり、200年でも300年でも生きたいと思っていた。全国で行っていた植物の教育普及活動や「牧野植物図鑑」を後世に残したことは偉業です」と牧野氏。

「富太郎さんはいつも奥の書斎にいて遊んでもらった記憶もないが、祖母が夕飯ですよと声をかけても仕事を続けるのに私が呼びに行くと来てくれました」と微笑ましいエピソードも。

「新聞記者がインタビューで「雑草」という言葉を口にした際には、世の中に雑草という草はないと語ったそうです」と田中氏。

この一言からも富太郎の植物への深い尊敬と愛が感じ取れる。

「妻壽衛子は富太郎が研究に専念できるよう支え続けました。どんな困難も共に乗り越え、内助の功といえるでしょう 」とも。

常設展示室の様子(牧野記念庭園・記念館/練馬区提供)
常設展示室の様子(牧野記念庭園・記念館/練馬区提供)
企画展示室の様子(牧野記念庭園・記念館)
企画展示室の様子(牧野記念庭園・記念館)

庭園内には記念館があり、富太郎ゆかりの品々やその歩みと功績がパネルで展示されている。富太郎の銅像の周りにはスエコザサが植えられている。また、書屋展示室では、足の踏み場もないほどに積み上げられた本や、机上の道具など富太郎の書斎を再現するプロジェクトが進められており、4月3日から公開される。


公園や空き地などで出会った植物が気になったらスマートフォンやタブレットをかざすだけで知ることができる今の時代、より詳しく調べたい時には書店に植物図鑑もある。私たちがこのような便利さを享受できるのは、牧野富太郎博士をはじめ多くの先人が自らの足で植物採取に赴き、研究し、長い年月をかけその知見が培われてきたからである。桜が各地で開花し見頃を迎えているが、道端に咲く小さな植物達に名前を尋ねたいと思った。


取材協力

『練馬区立牧野記念庭園』(東京都練馬区東大泉)

参考文献

『牧野富太郎自叙伝』牧野富太郎・著(講談社学術文庫)

『牧野富太郎植物画集』高知県立牧野植物園・編(アム・プロモーション)

『牧野富太郎 ~雑草という草はない~日本植物学の父』青山誠・著(角川文庫)

『随筆草木志』牧野富太郎・著(中公文庫)

『牧野富太郎の人生』メディアソフト

『もっと知りたい 牧野富太郎 生涯と作品』池田博 田中純子著(東京美術)

『牧野太郎の植物学』田中伸幸(NHK出版)

参考サイト

牧野富太郎 著『通俗植物講演集』第3巻 (菊の話),文友堂,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/1145943

「雑草という草はない」は牧野富太郎博士の言葉 戦前、山本周五郎に語る 田中学芸員(東京・記念庭園)が見解 | 高知新聞

https://www.kochinews.co.jp/article/detail/586935

日本のレッドデータ検索システム

http://jpnrdb.com/search.php?mode=map&q=06040454801

姫路市 のじぎく開花情報

https://www.city.himeji.lg.jp/kanko/0000002837.html

姫路市 善照寺のショウフクジザクラ

https://www.city.himeji.lg.jp/kanko/0000002128.html

神戸新聞Plus トピック情報

https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?news/odekake-plus/news/pickup/201911/12889943

神戸新聞Next

https://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/202211/sp/0015803292.shtml

兵庫区歴史さんぽ道シリーズ 湊川新開地 ・ 会下山

https://www.city.kobe.lg.jp/documents/17451/minatogawasinnkaitiegeyama.pdf


出席者(敬称略)
牧野一浡(牧野記念庭園学芸員)
田中純子(牧野記念庭園学芸員)

森千江子
記事協力
『練馬区立牧野記念庭園』(東京都練馬区東大泉)
当会管理外の著作権
一部写真の権利は東京都練馬区に帰属します。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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